脱力とは、“相対的な体感”である
- kosakawataru6
- 7月29日
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【脱力とは、“相対的な体感”である】
「脱力できているかどうか、どう判断すればいいですか?」
この問いは現場でもよく受けますが、私は脱力を“あるべき状態”として定義することに違和感があります。
なぜなら、緊張のレベルは動作や状況、個々の身体状態によって常に変化するからです。
スクワット中の緊張と、歩行中の緊張では質が異なりますし、同じ動作でも「肩が上がる」「呼吸が浅い」と感じる日もあれば、そうでない日もあります。
このように、脱力は常に“今この瞬間の緊張との比較”によって立ち現れる感覚です。
つまり重要なのは、「今、自分のどこに緊張があり、そこにどんな変化が起きたか」に気づけるかどうか。
“できているかどうか”を思考で判断しようとするほど、身体感覚からは遠ざかってしまいます。
これは、東洋の“陰陽”思想とも一致します。
緊張(陽)があるからこそ、脱力(陰)を認識できる。
脱力は単体で存在するのではなく、“緊張との関係性”の中で初めて体感される現象なのです。
だからこそ、脱力は「あるべき形」ではなく「自らの内に生じた変化」として捉えるべきもの。
呼吸が通った、重心が落ち着いた、どこかがゆるんだ。
その一つひとつの“気づき”が重要なのです。
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