「潮騒」三島由紀夫|読書感想 小坂航
- kosakawataru6
- 3月17日
- 読了時間: 3分

「潮騒」三島由紀夫
「潮騒の恋を取り戻すことが日本的霊性に還るきっかけになるだろう」
永遠の三島由紀夫に記されていたこの意味は何か?
その問いに潮騒の世界を味わいながら読み進めた。
新治と初江の純愛は、まさに人類の初心を映し出していた。
歌島は海に囲まれ、外部との関わりが少ない閉ざされた世界だった。
しかし、その環境が歌島の自然や文化に新治と初江を染め純粋を育んだ。
いわゆる、聖書でいえばエデンの園にあたり
日本の歴史でいえば、縄文の世界になるのだろう。
そして、作中に「未知」という表現が度々使われていた。
新治と初江の最初の出会いは何も言葉を交わさず、
ただ検分するかのように新治は初江を見つめそのまま通り過ぎる。
それだけの出来事だった。
しかし、三島先生は新治が「好奇心を充たされた幸福にぼんやりしていた」と表現している。
なぜ新治は幸福だったのだろうか?
私は、「未知」との出会いそのものが、生命の根源的な歓びであるからではないかと感じた。
「未知」によって二人が引き寄せられる。
私はこの感覚が日本的霊性なのではないかと感じた。
エデンの園では、人は知恵の実を食べたことで「未知」を手放し、知識によって合理的に生きる人類の選択が楽園を失わせた。
縄文の世界では「所有」の概念がなく、
自然の恵みを受け取りながら生きることで純粋性と霊性を保っていた。
潮騒に描かれた新治と初江の関係も、打算や比較のない純粋な愛の形でただ「惹かれ合った」という感覚だけで結びついていく。
そこには、未知を未知のままとして受け入れる、日本的霊性が息づいているように思えた。
私は、未知という言葉と向き合う中で聖ヨハネの言葉を思い出した。
「お前の知らぬものに到達するために、お前の知らぬ道を行かねばならぬ」
潮騒の世界が清らかに美しく描かれているのに対し、聖ヨハネの言葉は重く厳しい。
しかし、その根底には同じ真理が流れているのではないだろうか。
人類の根源的な初心は、未知を抱き続ける心にあるのだと感じた。
しかし、現代はどうだろうか。
科学技術の発展が物質文明を築き、すべてを知識で解決しようとする時代となった。物質化され、合理化された世界の中で、私たちは「未知」を感じる余白が奪われている。
だが、「未知」とは、頭で考えるものではなく、理屈で解き明かせるものでもない。だからこそ、私たちは書や芸術を通して、「未知」を感じることができるのではないか。
未知を未知のままに受け入れられる心を取り戻すこと。それが、「潮騒の恋を取り戻す」ことの意味なのではないかと思う。
小坂航


