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『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル|読書感想 小坂航

  • 執筆者の写真: kosakawataru6
    kosakawataru6
  • 4月17日
  • 読了時間: 3分


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『弓と禅』 オイゲン・ヘリゲル


ドイツ人であり哲学者でもあったオイゲン・ヘリゲルは、1920年代に日本に滞在し、東北帝国大学で教鞭をとる傍ら、禅の精神を理解する手段として弓道の修行を始めた。


ヘリゲルが師事した阿波研造師範は、「弓道はスポーツではない」と語り、単なる技術の習得ではなく、弓を通じて人間をつくる修行であることを説いていた。


まさに、“道”としての弓の姿である。


本書には、そうした阿波師範の教えと、それに戸惑いながらも真摯に向き合っていくヘリゲルの姿が描かれている。


師範は、具体的な技術や理論を教えるのではなく、抽象的かつ直感的な言葉を用いて導いていく。


「矢を放つのではありません。矢が自ずと放たれるのです」

「射手は的に当てるのではなく、自己自身を射中てるのです」


それはまさに、「考えること」や「意図すること」を超えた、無心の状態で技を行う境地に至らせようとする教えであった。


この修行の在り方を読みながら、私は過去に読んだ野中郁次郎先生の『知識創造企業』における「暗黙知と形式知」の理論を思い出した。


野中先生は、知識には言語や数式で説明できる「形式知(explicit knowledge)」と、言葉にしきれない感覚や経験の積み重ねである「暗黙知(tacit knowledge)」があると述べている。


そして、日本型の学びや組織文化では、この暗黙知が重視されてきたという。


たとえば、名プレイヤーであった長嶋茂雄監督は、監督として選手に感覚を伝えようとした際、比喩的な言葉や身振りを数多く用いたものの、最終的には「感じるしかないですね」と語った。


そこには、言葉では伝えきれないことが確かに存在するという実感と、それは直接体験を通じてしか得られないという、東洋的な学びの本質が表れている。


阿波師範がヘリゲルに対して、すぐに技術的な修正をせず、「感じる」「待つ」ことを促し続けたのは、まさに暗黙知を体得させようとする教育の実践だったのではないかと思う。


この一連の流れを読み終えたとき、私はトレーナーとしての指導の在り方について、深く考えさせられた。


私は日々、動作を評価し、問題があれば修正するためのコレクティブエクササイズを提供している。


しかし『弓と禅』に触れたことで、単に「正しい動き」に導けば良いわけではないという問いが、自分の中に生まれた。


たとえば、一つのエクササイズに対しても、「この動きをして、あなたの身体はどう感じたか?」「どこに違和感があったか?」「何がスムーズだったか?」

といった、本人の内面と向き合う時間こそが重要なのではないかと、思うようになった。


阿波師範が“正しい”矢の放ち方を教えるのではなく、「その動作の中で何を感じたか」を大切にしたように、私たちトレーナーもまた、すぐに答えや方法論を与えるのではなく、気づきが生まれる余白をつくることが求められているのではないかと感じている。


それは、形式知を一方的に伝える指導ではなく、暗黙知が目を覚ます瞬間を待つ関わり方である。


現代では、形式知、“頭で理解すること”ばかりが重視され、私たちはすぐに正解や答えを求めがちである。


だが、人間の本当の成長には、まず感じてみること、言葉にならない感覚を味わい、身体を通じて学ぶプロセスが不可欠なのではないだろうかと思う。

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