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「物質と精神」「高貴と野蛮」

  • 執筆者の写真: kosakawataru6
    kosakawataru6
  • 4月20日
  • 読了時間: 3分

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「物質と精神」「高貴と野蛮」


現代のトレーニングは、アウターマッスルばかりが重視されている。

けれど私は、肉体における「アウター=物質」「インナー=精神」と捉えている。


だからこそ、今あらためて「物質と精神」の関係を考え直してみた。


文明の歴史は、物質に傾いた時代と、精神に重きを置いた時代を交互に行き来してきた。

そして今、2025年という文明の転換期を迎え、再び“精神性”に価値を見出そうとする流れが起きているように思う。


行き過ぎたグローバリズムや物質主義から、真の霊性文明へ向かうこと。

それは、現代において人間が本質的に取り戻すべきテーマではないだろうか。


SNSを中心に、「波動を高めよう」「好きなことをして生きよう」「自分を浄化しよう」といった言葉が多く見られる。

それ自体が悪いとは思わないが、その多くが、優しさや癒しの範囲にとどまっているように感じてならない。


私は今、「生命燃焼」という哲学を掲げ、インナーマッスル(深層筋)へのアプローチを通じて、物質と精神の統合を目指している。

その背景には、「筋肉」や「見た目」、あるいは「肉体第一」の価値観に偏りすぎた現代の健康観への強い問題意識がある。


このままでは、健康業界やトレーニング業界は、ますます物質主義の深みにはまっていくだろう。

だからこそ私は、身体という入口から、精神へと立ち返る道を探っている。


ただし、ここで言う“精神”とは、決して穏やかで優しいものだけではない。

むしろ、三島由紀夫先生や執行草舟先生が語るように、「高貴と野蛮の合体」こそが人間の本質であると、私は強く感じている。


たとえば、神話に登場するスサノヲの魂。

秩序を乱し、神々から追放される粗暴さを持ちながらも、国土を整え、人々を救う役割を果たす。

スサノヲはまさに、「荒ぶる魂」の象徴である。


優しさだけでは、物質文明から霊性文明への移行は成し遂げられない。

それに立ち向かうには、「野蛮性」が必要なのだ。


現代では見過ごされがちな、いわゆる「不良性」も、私は重要な価値だと思っている。

仲間のために命を張り、筋を通し、理屈を超えた何かのために戦う心。

それは、どれだけ社会が進化しても、人間にしかできない行為であり、そこには“愛”と呼べるエネルギーが宿っている。


また、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」という言葉も、単に「みんな仲良くしましょう」という意味にされがちだが、本来はそうではない。

当時は、大豪族という価値観も文化も異なる集団が複雑に入り乱れていた時代。

まるで国家同士のような独立した存在たちを、一つの国としてまとめていく中で発せられた精神だった。


独立自尊の精神を持つ者たちが、それでも「国のため」に議論を重ね、衝突しながらも折り合いをつけていく。

そこにあったのは、生ぬるい優しさではない。


真の霊性文明に向かうためには、私たちはもっと深く、人間の根源にある「荒ぶる魂」と向き合わなければならない。


神道には、和する魂と書いて「和魂(にぎみたま)」、荒ぶる魂と書いて「荒魂(あらみたま)」という言葉がある。

この二つが表裏一体となったものこそ、「大和魂」であり、日本人が受け継いできた精神の美学だった。


私はこの“表裏の関係”こそが、人間が本当に生命を燃やすために、そして霊性に向かうために、欠かせないものだと思っている。

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